
その日は朝から「春の嵐」のように風が吹き荒れていた。久しぶりの日銀同期とのランチ会が開かれる日で、札幌から横浜に帰ってきた同窓のY君に10数年ぶりに会えると楽しみにしていた。運命のいたずらかランチタイムが近づくにつれ風はますます勢いを増し、京葉線の最寄り駅まで足をはこんだが、「運休」のアナウンスが流れており、やむなく同期会幹事のN君に電話し、「残念ながら欠席」の連絡を入れた。ドタキャンであったので、レストランにも事情を説明し、列車運休によるキャンセルならやむなしということでキャンセルフィーは免れた。
会の終了後、幹事のN君から「2名のキャンセルがあり8名になったが、それぞれ元気な姿を見せてくれた。ただ、H君から「同期一の快男児で新人時代から最も親しかったK君が一月に老衰で亡くなったとの連絡が奥さんからあり、出席者一同で食事前に黙とうした」との報告があり、突然のことでびっくりした。K君は小生の小さな会社で2年ほど一緒に仕事をしていた「第三の人生での最も頼りがいのある同期」だったからである。
彼は185センチ、90キロの体躯で、学生時代準硬式野球部のエースとして鳴らしていたスポーツマンで、しかもいつも笑顔を絶やさず、一度出会った人からは「Kさんのような腰の低い日銀マンにはお目にかかったことがない」と激賞されることがしばしばあった。「大橋ができるなら俺にもやれそうな気がするので、独立して新しい会社を立ち上げたい」との相談があり、喜んで送りだした。ただ、「この年齢で会社を立ち上げるといろんな壁にぶつかる。くれぐれも無理しないで、浮利は追わないように。ここまで育ててくれた社会に還元するつもりで、小さく生んでゆっくり育てるように。年相応に体調にも気を付けて」とのメッセージも添えた。
その後、10年近く経ち「彼のことだからきっとお客様に可愛がられ頑張っているだろう」と思っていたが、H君の説明では「結局会社も閉鎖して、愛するご家族に見守られながら静かに息を引き取ったようだ」とのこと。
「春の嵐」に見舞われ欠席のやむなきに至った同期会ではあったが、予想外の訃報にK君の住まいである町田市の方角に向かって手を合わせるしかなかった。
昭和42年、日本経済はまだ高度成長の余韻を残していた。ケインズ経済学の「有効需要理論」が華やかなりしころ、日銀の門をくぐった同期27名のうち、彼で7名が天国に旅立った。来年の同期会はやはり同じ桜の頃に開かれるとのこと。残された仲間との元気な再会を今から楽しみにしているところである。