
ほぼ20年前、地銀経営を何とか立て直し退職した直後、待っていたかのように二人のベンチャー経営者が声をかけてきた。天安門事件に嫌気がさして北大で学びソフトブレインという営業戦略会社を上場させていた宋文洲君とNCRから転身してPCIというシステムコンサル会社を起業した天野君の二人で、ともに破格の条件で経営サポート(総合顧問職、会長職)を頼まれた。
当時、尊敬するベンチャー経営者の『京セラ稲森さん、堀場製作所堀場雅夫さん』の薫陶を受け、草創期の「ユニクロ柳井君、楽天三木谷君』ともすでにいろいろ接点があり「日本は若者がブランド企業志向でベンチャー育成が課題」と考えたていたので、「いささかでもお役にたてば」との思いで宋、天野両君のビジネスをサポートすることとした。
また、地銀経営のころ、日銀の福井総裁やオリックスの宮内さんから村上ファンドの村上君を紹介され、彼の紹介で一人の若者との出会いがあった。ぼさぼさ髪で33歳のこの若者はポケットから当時先端機器の携帯を次々と取り出した。あのライブドアのホリエモンとの出会いである。ネット銀行設立で意気投合したが、経営陣仲間にいささか危うさを感じ、慎重に「準備会社設立」で進め、資本提携は避けた。ほどなく堀江君は政治活動に乗り出し、結局は有価証券取引法違反で逮捕され、「本邦初のネット銀行設立構想は立ち消えとなった(この間、銀行から「かわいい子には旅を」との思いで準備会社に派遣した逸材は、その後銀行の頭取、会長として今も活躍している)。
2年の服役後、彼と出会い「迷惑を掛けました」と謝罪されたが、損害はなかったので「迷惑は掛からなかったが、君は経営者としてはどうか?お母さんのような厳しい人に指導してもらうのがいいのでは?」と勧めたが、「母親は最も苦手です。どうすればいいでしょうか?」と聞いてきたので、「君の才能は素晴らしいしベンチャー魂もある。それを活かして本を書くとかこれからの若者に話をしてやってはどうか}と勧めた。ほどなく彼の処女作「ゼロ」が手元に届いた。その後、いくつかのビジネス書が生まれ、講演会には多くの若者が集まるようになり、人気Youtuberの一人となった。今なお、宇宙ロケットや核融合といった先端科学への夢を求めているその姿は、失敗の連続ながら旺盛なチャレンジ精神に「ベンチャーの鑑」とひそかにエールを送っている。