
コロナ騒動でしばらく音沙汰のなかった日銀時代の同期仲間10余名が、幹事の呼びかけで4年ぶりに神田のとあるレストランでのランチ会に集まった。
昭和42年、日本経済は高度成長の恵みを受け、金融界も都市銀行、長期信用銀行、信託銀行といったいわゆるメガバンクが23行もあり、大蔵と日銀の護送船団行政により銀行不倒神話がまかり通っていたいわゆる「古き良き時代」であった。日本橋本石町の日銀本店の門をくぐった大卒組27名は、最初の赴任地である支店名を北は札幌から南は鹿児島まで当時の宇佐美総裁(三菱銀行出身)から一人ずつ名前を呼びあげられ、最初の赴任地の辞令を受け取った。
社会人になる直前にすでに結婚していた小生は、人事部の説明では「君は奥さんの実家鳥取に近い山口県の下関支店に配慮しておいたから」とのもったいぶった説明を受けたが、当時鳥取駅から下関駅まで山陰本線(単線)で赴くと9時間もかかり、「人事部は日本地図がわかっていないのでは?」と土地勘のなさに首を垂れるばかりであった。
5月のGW明けまでは全員人事部研修課に配属され、目黒代官山の研修会館でいくつかのチームに分けられ、日銀券の数え方やそろばんを教わるとか、役員講話や先輩からの支店での苦労話を聞かされ、週末には石神井のグランドでソフトボールに興じたり、夜になるとぎこちない手つきで麻雀や囲碁に興じるなど学生時代の延長という感が強かった。
当時はまだ「出勤簿」なるものがあり、人事部の美しい女子行員に促され、各自自分の名前欄に押印した後、9時からの始業に備えた。窓口業務終了時の3時になると「拍子木」が廊下に鳴り響き、食堂は2階と5階にあって、両方の食堂で「はしごランチ」をする猛者もいたりした。
渡り廊下の天井はやたらに高く、歴代総裁の似顔絵がいかめしく立ち並んでいた。
話を久しぶりの同期会に戻すと、27名中、残念ながら5名がすでに鬼籍に入り、3名が入院加療中とあって、都合のつく面々が白髪禿頭をものともせず集まった。日銀を離れ第二の職場も卒業、一同ほぼ傘寿を迎え「肩の凝る金融政策や気の滅入る病気の話題はなるべく避けよう」と申し合わせてそれぞれの近況を語りあった。
一部に自慢話を長々と披露し顰蹙を買うものもいたが、多くは、「金融論のバイブルとされたサムエルソンの『エコノミクス』の原書が知らぬ間にブックオフに断捨離」、「施設入居中の白寿の義母介護でワイフが留守がちのため、持ち帰り弁当屋探しに四苦八苦」、「慣れないリンゴの皮むきで人差し指を怪我」、「地域の老人会仲間とのラジオ体操や太極拳で汗流し」、「ワイフへの懺悔の気持ちも込めて写経」などなど、老境ならではのほほえましい暮らしぶりが聞かれ、久方ぶりの楽しい集いとなった。