
原作者は、岩手県遠野町で生まれ育ち、小説家になりたかった若竹千佐子さんで、2018年にはこの作品で芥川賞を受賞、その小説の映画化である。岩手大学教育学部を卒業後、教職を目指すがことごとく失敗し、失意のさなか夫と出会い、30歳で上京し息子と娘の二児に恵まれる。子育てをしながら、深沢七郎、石牟田道子,河合隼雄、上野千鶴子などの本をむさぼり読む。55歳で夫が突然死去、悲しみに暮れていると、息子から「どこにいても寂しいんだから、外に出たら」とすすめられ小説講座に通い始め、主婦業の傍ら文筆の才を生かし本作を執筆する。
沖田修一監督は、母親が東北の山形出身ということもあり、母親の方言指導を受けながら本書を熟読、映画化に踏み切る。
時代は先の東京オリンピック開催の1964年、そのころに主人公の日高桃子(田中裕子熱演)は上京する。彼女の人生は昭和の高度成長期からデフレ経済下の平成、そしてコロナに悩まされる令和、これらの時代を、愛する夫(若き日の桃子を蒼井優、そして最愛の夫を東出昌大が好演)に先立たれ、孤独と闘いながら「残された時間」をそれなりに工夫しつつ過ごす。
一人暮らしの桃子は目下75歳。その日常は朝ご飯を食べ、TVを観ながら一人ごとをつぶやき、昼ご飯の後近所を散歩、夕ご飯を終えて寝る一見単調な毎日だが、時折、図書館で本を借り地球の46億年の歴史を調べ、ノートを作っている。そんなある日、突如ちゃぶ台に3人の人影(濱田岳、青木崇高、宮藤官九郎、いずれも音楽好き)が桃子の「心の分身」(さびしさ1,2,3)として現れる。孤独の中ににぎやかさとユーモアを失わない心の大切さ、そして生き物の進化を探求する好奇心、東北弁の素朴さと武骨さ、これらがハーモニーとなって、老いの中の生きがいを知らず知らずのうちに気づかせてくれる。
解剖学者の養老孟司は、映画鑑賞後の取材に対し「寂しさと共存すること」と題し、以下のようにコメントしている。
・地味な素材を上手に映画にした。桃子の寂しさというものを人物に置き換えて表現したのはグッドアイデア。特に東北弁のセリフがうまくはまる。東北弁にはずっと「軽んじられているというか、見下されているという」響きがある。東京中心の社会から疎んじられてきた歴史のなせる業かもしれない。桃子が関西弁だとこのような作品にはならなかったように思う。
・今の人たちは人間関係を重視する。特にサラリーマン社会でもまれてきた日本人は。もっと自然との関係を深めれば、人と会わずともさびしいと感ずることは減るように思う。私は子供のころから昆虫が好きだから、80歳を過ぎた今も人間関係にまつわる寂しさをあまり感じない。
・桃子は、75歳にして、生命の起源と進化をたどっていく。彼女なりの自然との向き合い方かと思った。生命誕生から35億年、人が複雑に思考する脳を持つようになり20万年、その間に人類はいつ死に絶えても不思議ではなかった。存在が知られている生物の99%は絶滅しているともいわれている。ありとあらゆる過酷な状況を生き延びてきたのが現在の地球上に生息する生命体。桃子が目の敵にするゴキブリといえども、そう馬鹿にしたものではない(笑)。
このコメントで、先日とある中央紙で目にした「コロナ菌との共生を突き付けられている人類」との養老説がふと思い出されてきた。