
先日、近所の大型ショッピングセンター内にあるフォトショップから「年賀状シーズンが近づいてまいりました。恒例のご案内をさせていただきます」とのレターが届いた。
かっては、500枚を超える年賀状を書いていたが、最近はかなり減り、せいぜい200枚くらいになってきており、このところ「今年から年始のご挨拶を見合わせていただきたく・・・」といったレターも増えてきつつある。
「来年はどうしたものか?」思案投げ首をしつつ、ワイフとも相談の上、「お互い卒寿を迎えたことでもあり、思い切って絞り込むことにしよう」ということで一致した。
いつもの賀状はともかく、今年からご挨拶を見送らせていただく方々への文面をどうするか?できれば早めにご挨拶するほうがよかろう。とのことで以下のような文面で10月中にご挨拶することとした。
「拝啓 何かとあわただしい毎日ですが、皆様お元気でお過ごしのことと存じます。こちらもワイフともども傘寿をむかえながらも、お互いに感謝を忘れず元気な老後を過ごしております。
ところで、今後の新年のご挨拶につきましてはご辞退させていただきたくよろしくお願いします。長年のご厚誼に対しましては心より厚く御礼申し上げます。どうもありがとうございました。敬具」
早速フォトショップに150枚の印刷を依頼、特にお世話になった先輩や親しい友人、後輩たち、50名への賀状提出に絞り込むこととした。
こうしたいわゆる「二つのご挨拶」に関連して、日銀勤務時代のほろ苦い経験が思い出されてきた。同期27名全員、北は北海道釧路から南は沖縄まで37支店に一名ずつ配属、3年間の支店勤務を終えた後、本店や大阪、名古屋あるいは留学、大蔵通産省出向などへと第二ラウンドが始まるころで、まだ20代の若さであった。本店では営業局が人気部署であり、幸いにもそこへの配属を命じられ「まずまずのスタート」と意気込んでいたころである。当時、金融機関の合併がぼつぼつ始まり、第一勧銀の合併が実現、神戸でも「太陽神戸銀行の誕生」へ向け準備が進みつつあった。営業局で都長銀16行中のうち4行の資金繰り指導等いわゆる「窓口指導」実務を担当していた。
そんなある日、同じ部署の人事担当の調査役から呼ばれ、「神戸支店長から太陽神戸の合併実務を担当する腕利きの人材引き抜きの相談があり、君に白羽の矢が当たったが、受けてくれるかな?」まさに青天の霹靂である。当時本店枢要局から支店への転属は、事情はどうあれ「都落ち」の烙印そのもの、という風潮の中でまさに辞職覚悟の心境であった(尊敬する某先輩からは、隣住の勝手口で「ともかく死ぬなよ」と涙ぐみ見送られたりもした)。その時の親しい先輩や友人たちへの離任挨拶が「二つの挨拶状」である。一つは全く普通の挨拶状であったが、もう一つは詳細な文面は覚えてないが、「当時の心境を文面ににじませた、失意の中での神戸赴任をにおわせるもの」であった。このことはいずれ時の人事部長に知れるところとなり、当時すでに3人の子供がおり、簡単に転職もかなわず、「針のむしろ状態での日銀暮らし」がしばらく続いた。
ただ、「ともかくどんな仕事でも一生懸命やろう」との気概は失わず、事務所勤務やら出向経験の苦い経験を味わいながら不本意なサラリーマン生活を送るが、その後、金融界が激動する中で営業・考査畑で様々な実体験をするうちに、「ピンチこそチャンス。捨てる神あれば、救う神あり」ではないが、リカバリーの場を与えられ、最後には時の総裁から激励の色紙ともども倒産寸前の弱小第二地銀の救済経営を命ぜられるところとなった。